新緑の夜陰に脅える者としての原口 |
原口行雲はどこまでも愚かだっだが 人が愚かでなかった例しなどただの一度もなかった 不幸でない時代がなかったのと同じように 幸福でない時代がなかったのと変わりなく 上がり下がりを繰り返しながら、しかしじわじわと上がっていく気温に 原口行雲は脅えながら 新緑の夜陰に死を見るのだった 命が咲き誇るからこその恐怖が原口行雲にはあった 生まれた命と同じ数だけの死があることは自明で 死が大量生産されている初夏が 原口行雲はどうしても好きになれなかった 憎んでさえいた ラジオは流れる 原口行雲の唯一の たわいないバラードを彼の耳に届けていた 作り物の愛が彼にどんな安心を与えたか それは私たちには推し量りようもない 原口行雲はただひたすらに恐怖を続けていた 隣人のひとりも 虫の一匹も 子供の声も 蛍光灯の明かりさえ それらは営みであって 原口行雲にしてみれば、どうしようもなく命だった 息をしている 生きてる 原口行雲は ただ続けた 生きることも怖かったが 死ぬことはもっと怖かった 1リットルの紙パック マスカットティーをひとつ アップルティーをひとつ ジャスミンティーをひとつ ゼロカロリーなのはここまで ミルクティーをひとつ 4つのパックを入れたカゴがレジに置かれる 店員が拙い発音で値段を読み上げる ちょうど小銭が足りない時の獲物を取り逃がしたような気持ち 自動ドアをくぐれば そこには世界があって まばらに星が見えて 信号待ちをして 自転車が通り過ぎて 所在なくて ああ僕は どこに帰ればいいのだろう 新緑の桜に囲まれたマンションの 薄汚れてがらくたが積まれた僕の部屋に帰り ひっそりと呼吸を続ければいいのだろうか ああ僕は どこに帰ればいいのだろう 生は怖い 死はもっと怖い 計4リットルの紙パックは重い 結局どこにも辿り着けないようにできている おかしいな きみがいたころはせめてまだ 死というものに そして 息をしている自分に 生というものに 脅えがどうしても消せない 行雲は自分が生命体であることに吐き気がした けれど、無機物になりたいとは思わなかった ラジオから流れるナンバーは 初夏をイメージしたものになり ラジオの膜は生を謳歌し始めた 行雲は愚かであったが聡明でもあったから 生の謳歌を歌いあげるその曲が、何百万、何千万回繰り返されることに疑問は持たなかった 世の中は行雲ほどに愚かではない そして 行雲が欲している答えなど、ほとんど誰も望んでいないことだ 遊戯にも近しい 闇に照らされて命が光る 死ななければ生きているとは言えない 行雲は散々さまよってから 結局4リットルの紙パックを持て余し 薄汚れて記憶と後悔とがらくたの積まれた自分の部屋に戻り 深海魚の呼吸を続けた 息をしている 生きてる |