今夜は涼しかったんだ



 エアコンをつけてはいなかった。駅前の雑貨屋で買った、扇風機と呼ぶにはおこがましい安物のデスクファンを隣に置いて、寝床に風を流しているだけだった。
 それゆえに、ベランダへのガラス戸を開けてあった。もちろん、網戸は開けていない。わざわざ虫を招き入れる理由はない。
 空気の粘度は高い。じっとりと汗ばむが、それがまた心地よくもある。世界はきちんと一周してまた夏が訪れた。きみを連れ去った季節が。
 網戸の破れた箇所をガムテープで無理矢理ふさいだ部分が影になっている。真昼のそれは見た目がすこぶる悪いが、夜の暗がりではあまり自己主張しない。虫の侵入を防ぐ分にも、何の問題もあるまい。
 外には街灯がある。眠れぬ蝉が光へと体当たりをしているかもしれない。そんな罪深い光が、網戸の隙間からぼうっと部屋に這入ってくる。
 その控えめな光芒(こうぼう)に、わずかな愛しさを感じながら、とりとめもなく考える。
 きみにもしメールを送ったら、どうなるのだろうか。
 きみにもし電話ををかけたら、どうなるのだろうか。
 宛先不明のエラーメッセージが返ってくるだろうか。
 そんな電話番号は存在しないと言われるだろうか。
 それともまだ携帯自体は使われていて、家族の誰かが出るのだろうか。
 それとも、きみが。
 まったく益体(やくたい)もない思考だ。
 今もなお、きみへ抱いている気持ちはどこに分類されるのだろう。どう定義されるのだろう。
 切れ間なく続く蝉の鳴き声と、やはり切れ間なく続く扇風機が空気を送る音と、空気の粘度と、とめどない思考が、脳をほてらせて僕を不快な眠りに誘う。
 それら全て自分が望んだことで、エアコンさえつければ良かっただけの話。
 蝉が光へ体当たりしている音が聞こえた気がした。
 まどろんで、全てが遠くなっていく。

 ふと、寝る前の散歩で、誤って蝉の幼虫を踏みつけたことを思い出す。
 自分が、畜生残害(ちくしょうざんがい)(たぐい)であることを思い出す。



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