002 イマカライク <祈莉> |
ピアノマンの最寄りにある、私鉄 狭ヶ原駅の北口には店のいくつかがあるものの、シュウの住む南側はびっくりするぐらい何もない(先日、ついにやっとコンビニができた)。そもそも、狭ヶ原駅に南口が存在するということすら、知られていなかったりする。星ノ宮市民の諒成も知らなかった(出口はひとつきりだと思っていた)くらいだから、その認知度は十分に低いと言えるだろう。 時刻は二十三時五十三分。もうすぐ四月十一日になる。限られた私の寿命もまたひとつ減る。シュウには前もってPメールで、『イマカライク』と連絡しておいた。泊まりになるが、親には連絡を入れていない。高校生になってからというもの、年中ぶらぶらしていて、ろくに家には帰っていない。外泊するほうがデフォルトなのだ。 連絡してすぐ、シュウから返って来た簡素な内容のPメール『イエニイル』を、 静かで根深い怒りを脳内でもてあそびながら、人通りも明かりも少ない道を行くこと三分少々、駅の近くにある学校の隣を歩き、通り過ぎた後のT字路を右に曲がると、シュウの住むアパートがある。一階は店舗になっているが、文房具店なので騒音はほとんどない。二階と三階が居住スペースで、シュウの部屋は二階の五号室。右端にある。場違いなほどに、やけに明るい街灯がひとつだけあり、シュウの部屋を照らしている。部屋の明かりはついていた。今日は土曜日、今夜はまだ起きているつもりなのだろう。 黒のバッグから財布を取り出し、そこからさらに、シュウの部屋の合い鍵を取り出す。手慣れた仕草で、私はドアを開けた。ここに来るようになった頃こそは、遠慮して静かにドアを開けていたが、そんな初々しい気持ちはすぐになくなってしまった。どんなに乱暴にドアを開けたとしても、その音が家主本人に届かないことが往々にしてある。 キッチンでもある廊下を抜け、引き戸をひとつ開けると、そこは居間となっている。フローリングの部屋に、革のソファとガラスのテーブル、テレビとラック、そしてCD・MDプレイヤーが置かれ、だいたいの時間はここで過ごしているという。その、だいたいの時間、というのは主に音楽鑑賞の時間を指す。テレビはゲーム用で、番組はめったに見ない(音楽情報を集めるという目的でラジオは聞かれることがあるが、音質に難があるのが問題だそう。テレビの音楽番組は当てぶりばかりで見ていられないらしい)。ゲーム自体も、来客時の接待用と思われる節がある。本人は否定しているが。結局のところ、シュウの余暇は、ソファに深く体を預け、お気に入りの密閉型ヘッドフォン『ケンジ(愛称)』で、プレイヤーから流れる曲を聞いているか(正確に言えば、オーディオアンプをひとつ経由した音)、『ケンジ』に延長ケーブルを取り付けて、家中歩き回れるようにしたうえで、音楽を聞きながら家の細々としたことを片付けているか、どちらかだ。そして、今日は前者だった。 一見、シュウはソファにもたれて寝ているように見える。寝たふりはシュウの得意技だ。と言うよりも、音楽を聞くことに集中して、意識がそこに埋没していくと、 私の存在に気づき、こちらへ目を向けたシュウの姿は、ひどく間抜けに映った。短く無造作にまとめられた茶髪も、切れ長の いくら密閉型だって、とんでもない音量で聞けば当然ながら音漏れはする。ジャカジャカ乾いた音で漏れて流れていた洋楽のヘヴィメタルは、私がプレイヤーの停止ボタンを押して止まった。それと同時に、ようやくシュウはヘッドフォンを外した。私以外がこんな真似をすれば、ひどく立腹するらしいのだが、そこは付き合っている女の強みであり、趣味を同じくする者の強みなのだろう。 確かに、「何を聞いていたの?」と問われて、いちいちヘヴィメタルの解説から始めなければならない相手よりは、「またベター・ザン・ロウ?」とダイレクトに聞かれる方が腹も立たないだろう。そして「どうも気がつくとパワーメタルを聞いてるんだよな」と返す言葉に何の説明も要らなければ、怒る気にもなれないのかもしれない。 「アイスド・アース、かなり痺れたよ」まず私はここに来ると、MDに録音させてもらったCDの感想を言う。「ブラック・クロウズも良かったんだけど、なんだかなー」私が音楽を褒める際の シュウの家のCD・MDプレイヤーのMDの部分は、ほとんど私のためにある。MDは音質が落ちるからと、高尚な耳を持つシュウはCDしか聞かない。労力とお金がかかるからと、レコードを聞く趣味こそなくしてしまったが、その分、いろんなCDを買い漁っている。ジャンル問わず、洋邦の隔てもなく、クラシックだろうがジャズだろうがデスメタルだろうがお構いなしに、様々なCDがプレイヤーの脇の大きな棚に乱雑に並んでいる。 CDの枚数は膨大で、本来なら棚が二つも三つもいるところ、一つで済んでいるのは、CDは聞ければそれでいいと考えているシュウが、プラケースを剥いでしまうからだ。剥いでしまった後、歌詞カードとCDだけを、紙のソフトケースに入れる。もしかしたらいつか売る時が来るかも、なんて庶民の思考には至らないらしい。もとより、一切売る気はないのだろうけれど。 MDの音質で十分な(ほんの一年前まで、カセットのウォークマンで我慢していた)私は、ここに来る度に、買い置きしておいた空きのMDに、シュウがお勧めするCDの曲を録音していく。前回はハードな二枚だったから、今日はネオアコのお勧めでも聞いてみようか。サンシャイン六十通りのHMVに通いつめて得てきた戦果の中には、そういうものもあるだろう。まあとにかく、健全な社会人の財力には恐れ入るばかり。十も年下の女を口説いた勇気については、今のところ感謝している。 「もうちっと早く来るはずだったんだけど、ちょっとアクシデントがあってさ」アクシデントとは、歌詞を書きたいと申し出てきた藤馬のことだ。「おい、ちょっと」声をかけられて、パーカーの裾にかかっていた手が止まる。「何の前触れもなく、まるで我が家のように服に手をかけるんじゃない」さして怒った風でもなく、シュウは私を シュウがただひとつ、自発的に聞くMDがある。「鞄の中。適当に取っていって聞いて」私たちのバンドの演奏を録音したMDだ。ライブの時、特にピアノマンで シュウは私の鞄を漁ると、すぐに目的のMDを見つけ出した。ラベルに、『SGtU ピアノマン 4・10』とマジックで乱暴に書かれている。 シュウは、下着姿になりつつあった私には目もくれず、プレイヤーにMDを差し込み、再びヘッドフォンのケンジを頭から被った。そして、 シュウの家にゴムの買い置きがあることは知っている。それが私のためによって減ると、いろいろとややこしいことも。どっちが本命なのかは知らないけれど、私は、二人いるうちの、口うるさくない方、で、物わかりが良い方、だ。 「ま、ナシでしたところで、産まれる日は来ないんだけどさ」 後でシュウにはコンビニに行ってもらおう。そうだ、ライヴの後に吸うロングピースの事もすっかり忘れていた。 まだ私が小学生の頃の景色、混濁した音色のうねりの中に立つ、あの人が咥えていた煙草。残酷なまでに美しいギターソロは、常に紫煙と共にあった。ロングピース。いつもはセブンスターを吸う私が、ライヴの後に必ず吸う煙草。重すぎて苦くて、いつもまともに一箱を空けられない。でも、ライヴが終われば必ず買う。燃え尽きた後に、もう一度初期衝動を確認するために。それも一緒にシュウに買ってきてもらえばちょうどいい。 ユニットバスでこそないものの、このアパートの浴室は狭い。脱衣スペースなんて考慮されていない。慣れないうちは、猫の額のようなスペースで四苦八苦して着替えていたものの、現在は居間で堂々と全裸になってしまう。シュウは体裁だけ取り繕うふりをして、実際のところは、もうさして気にとめていない。とは言え、やる時はやるわけだし、立つ物は立つし、濡れもするし、まったく人間の生理ってものは理解に苦しむ。それに比べて音楽のどれだけ単純明快なことか。 何の気なしに触れると、私の左胸が、いつもより拍動が強く、そして、わずかな熱を帯びているように感じられた。それが勘違いでないとして、いったい何のためのことなのだろう。Aカップだから心音が分かりやすいとシュウに言われたことを、なんとなく思い出した。反射的に、シュウが投げ出していた足を蹴った。胸の大きさでロックもパンクもやってるわけじゃないっての。そのAカップを楽しそうに弄るくせに。 |