002 イマカライク <祈莉>



 ピアノマンの最寄りにある、私鉄阿木留(あきる)線のターミナル駅、星ノ宮(ほしのみや)駅からひと駅、阿木留南北線の狭ヶ原(さがはら)駅に、津幡(つはた)秋詠(あきなが)の住む2Kのアパートがある。アキナガなんて響きには日本情緒は感じてもロックは感じないので、私はシュウという愛称で呼んでいる。女子高生にシュウなんて呼ばれてはいるが、PCのワープロソフトや表計算ソフトを手がけている会社に籍を置いて、若いながらもディレクターをやってのけている立派な社会人だ。
 狭ヶ原駅の北口には店のいくつかがあるものの、シュウの住む南側はびっくりするぐらい何もない(先日、ついにやっとコンビニができた)。そもそも、狭ヶ原駅に南口が存在するということすら、知られていなかったりする。星ノ宮市民の諒成も知らなかった(出口はひとつきりだと思っていた)くらいだから、その認知度は十分に低いと言えるだろう。
 時刻は二十三時五十三分。もうすぐ四月十一日になる。限られた私の寿命もまたひとつ減る。シュウには前もってPメールで、『イマカライク』と連絡しておいた。泊まりになるが、親には連絡を入れていない。高校生になってからというもの、年中ぶらぶらしていて、ろくに家には帰っていない。外泊するほうがデフォルトなのだ。
 連絡してすぐ、シュウから返って来た簡素な内容のPメール『イエニイル』を、()めつ(すが)めつ眺めてしまう。すると、じわじわと湧く怒りを堪えきれない。なんでまた、世紀末にもなって、半角英数カナの二十文字以内でやり取りをしなければならないのか、その事に無性に腹が立つ。ボケベルの時代じゃないってのに。私のほうが先に持ってたんだから、買う時にひと言相談してくれればそれでよかったんだ。店員に騙くらかされて、アステルのPHS(ピッチ)なんか買ってしまうなんて。それでいて、わりとのんきにPHSを楽しんでる感じがあるから余計に腹が立つ。PHSを買うのなら、私と同じDDIにしてくれれば、PメールDXが使えたのに。カナや英数だけのかっこ悪いメールじゃなく、濁点で一文字使ってしまうこともなく、漢字も使える千文字までのメールがたった十円で送れたというのに! どうして二十文字までのメールで満足してしまうのだろう。実に腹立たしい。ちなみにSGtU(セイグッバイトゥユートピア)のメンバー全員は、ボーカルである私の一存で、DDIのPHSしか使えないことになっている。PメールDXのサービス開始前からIDOの携帯を持っていた不比等だけは、特別に例外として扱われている。もっとも、次に機種変更するのなら、DDIのPHSに変えなければならないが。まるでDDIの回し者のようだが、実際に使ってみれば、PメールDXは、欠かすことのできないコミュニケーションツールだと納得してもらえる。しかし、使ってくれない人にいくら利便性を説いたところで不毛だ。
 静かで根深い怒りを脳内でもてあそびながら、人通りも明かりも少ない道を行くこと三分少々、駅の近くにある学校の隣を歩き、通り過ぎた後のT字路を右に曲がると、シュウの住むアパートがある。一階は店舗になっているが、文房具店なので騒音はほとんどない。二階と三階が居住スペースで、シュウの部屋は二階の五号室。右端にある。場違いなほどに、やけに明るい街灯がひとつだけあり、シュウの部屋を照らしている。部屋の明かりはついていた。今日は土曜日、今夜はまだ起きているつもりなのだろう。

 黒のバッグから財布を取り出し、そこからさらに、シュウの部屋の合い鍵を取り出す。手慣れた仕草で、私はドアを開けた。ここに来るようになった頃こそは、遠慮して静かにドアを開けていたが、そんな初々しい気持ちはすぐになくなってしまった。どんなに乱暴にドアを開けたとしても、その音が家主本人に届かないことが往々にしてある。
 キッチンでもある廊下を抜け、引き戸をひとつ開けると、そこは居間となっている。フローリングの部屋に、革のソファとガラスのテーブル、テレビとラック、そしてCD・MDプレイヤーが置かれ、だいたいの時間はここで過ごしているという。その、だいたいの時間、というのは主に音楽鑑賞の時間を指す。テレビはゲーム用で、番組はめったに見ない(音楽情報を集めるという目的でラジオは聞かれることがあるが、音質に難があるのが問題だそう。テレビの音楽番組は当てぶりばかりで見ていられないらしい)。ゲーム自体も、来客時の接待用と思われる節がある。本人は否定しているが。結局のところ、シュウの余暇は、ソファに深く体を預け、お気に入りの密閉型ヘッドフォン『ケンジ(愛称)』で、プレイヤーから流れる曲を聞いているか(正確に言えば、オーディオアンプをひとつ経由した音)、『ケンジ』に延長ケーブルを取り付けて、家中歩き回れるようにしたうえで、音楽を聞きながら家の細々としたことを片付けているか、どちらかだ。そして、今日は前者だった。
 一見、シュウはソファにもたれて寝ているように見える。寝たふりはシュウの得意技だ。と言うよりも、音楽を聞くことに集中して、意識がそこに埋没していくと、傍目(はため)には寝ているように見える、ということらしい。そも、アンプのボリュームまで含めて音量いっぱいにして爆音で曲を聞いていたら、他のどんな気配もそうそうわかるまい。実際今日も、ソファを二回蹴ってやるまで、シュウは私が来たことに気づかなかった。
 私の存在に気づき、こちらへ目を向けたシュウの姿は、ひどく間抜けに映った。短く無造作にまとめられた茶髪も、切れ長の双眸(そうぼう)も、この時ばかりは滑稽さを引き立てていた。しかしまあ、ベッド以外で眼鏡を外している顔が見られるのは悪くない。ちなみにスーツの上着だけ脱いで部屋着に着替えずに音楽を聞くのは、仕事で嫌なことがあった時。けれど私は容赦しない。
 いくら密閉型だって、とんでもない音量で聞けば当然ながら音漏れはする。ジャカジャカ乾いた音で漏れて流れていた洋楽のヘヴィメタルは、私がプレイヤーの停止ボタンを押して止まった。それと同時に、ようやくシュウはヘッドフォンを外した。私以外がこんな真似をすれば、ひどく立腹するらしいのだが、そこは付き合っている女の強みであり、趣味を同じくする者の強みなのだろう。
 確かに、「何を聞いていたの?」と問われて、いちいちヘヴィメタルの解説から始めなければならない相手よりは、「またベター・ザン・ロウ?」とダイレクトに聞かれる方が腹も立たないだろう。そして「どうも気がつくとパワーメタルを聞いてるんだよな」と返す言葉に何の説明も要らなければ、怒る気にもなれないのかもしれない。
「アイスド・アース、かなり痺れたよ」まず私はここに来ると、MDに録音させてもらったCDの感想を言う。「ブラック・クロウズも良かったんだけど、なんだかなー」私が音楽を褒める際の語彙(ごい)は恐ろしく乏しい。私は音楽ライターにはなれない。自分でも情けないと思うそれを、毎回シュウは求めてくる。単純に良し悪しだけだったとしても聞きたいものらしい。「後半だれちゃった感じ? いまいちピリッとしなかった」そう言うと、シュウは納得したような面持ちになって「メンバー二人抜けてからのアルバムだからな。やっぱり影響は少なくないよな」と一人で呟き、テーブルに置かれていた眼鏡を手に取った。
 シュウの家のCD・MDプレイヤーのMDの部分は、ほとんど私のためにある。MDは音質が落ちるからと、高尚な耳を持つシュウはCDしか聞かない。労力とお金がかかるからと、レコードを聞く趣味こそなくしてしまったが、その分、いろんなCDを買い漁っている。ジャンル問わず、洋邦の隔てもなく、クラシックだろうがジャズだろうがデスメタルだろうがお構いなしに、様々なCDがプレイヤーの脇の大きな棚に乱雑に並んでいる。
 CDの枚数は膨大で、本来なら棚が二つも三つもいるところ、一つで済んでいるのは、CDは聞ければそれでいいと考えているシュウが、プラケースを剥いでしまうからだ。剥いでしまった後、歌詞カードとCDだけを、紙のソフトケースに入れる。もしかしたらいつか売る時が来るかも、なんて庶民の思考には至らないらしい。もとより、一切売る気はないのだろうけれど。
 MDの音質で十分な(ほんの一年前まで、カセットのウォークマンで我慢していた)私は、ここに来る度に、買い置きしておいた空きのMDに、シュウがお勧めするCDの曲を録音していく。前回はハードな二枚だったから、今日はネオアコのお勧めでも聞いてみようか。サンシャイン六十通りのHMVに通いつめて得てきた戦果の中には、そういうものもあるだろう。まあとにかく、健全な社会人の財力には恐れ入るばかり。十も年下の女を口説いた勇気については、今のところ感謝している。
「もうちっと早く来るはずだったんだけど、ちょっとアクシデントがあってさ」アクシデントとは、歌詞を書きたいと申し出てきた藤馬のことだ。「おい、ちょっと」声をかけられて、パーカーの裾にかかっていた手が止まる。「何の前触れもなく、まるで我が家のように服に手をかけるんじゃない」さして怒った風でもなく、シュウは私を(たしな)めた。もっとも最近では、実家にいる日数とこの家にいる日数はさして変わらないのだけれど。「ああうん、ごめん。お風呂貸してね。汗かいたからさ」なるべく早く汗を流したいというのは、本当のところだった。「で、今日のMDは?」シュウが次に口にしたことはそれ。結局のところ、体裁を取り繕う必要があるというだけで、脱ぐ脱がないなんて、実際はシュウにとってもどうでもいいことなのだ。
 シュウがただひとつ、自発的に聞くMDがある。「鞄の中。適当に取っていって聞いて」私たちのバンドの演奏を録音したMDだ。ライブの時、特にピアノマンで()る時は、ライヴの音を丸ごと録音してもらう。演奏のみならず、私のMCや、客が入れる合いの手まで全て収録される。それを今後の反省材料にするのだが、いつもその音源を最初に聞くのはシュウなのだ。
 シュウは私の鞄を漁ると、すぐに目的のMDを見つけ出した。ラベルに、『SGtU ピアノマン 4・10』とマジックで乱暴に書かれている。
 シュウは、下着姿になりつつあった私には目もくれず、プレイヤーにMDを差し込み、再びヘッドフォンのケンジを頭から被った。そして、(くだん)の、一見寝ている風な姿勢へとじわじわ移っていく。ライヴ後に来ると決まってこうなる。そういえば、と、そこで私は、ゴムを買いそびれていた事に気づいた。遠峰藤馬の出現はそんな基本的な事も失念してしまうほど、インパクトのある事だったろうか。そうは思うことは難しいが、でも実際にゴムは買い忘れてしまった。
 シュウの家にゴムの買い置きがあることは知っている。それが私のためによって減ると、いろいろとややこしいことも。どっちが本命なのかは知らないけれど、私は、二人いるうちの、口うるさくない方、で、物わかりが良い方、だ。
「ま、ナシでしたところで、産まれる日は来ないんだけどさ」
 後でシュウにはコンビニに行ってもらおう。そうだ、ライヴの後に吸うロングピースの事もすっかり忘れていた。
 まだ私が小学生の頃の景色、混濁した音色のうねりの中に立つ、あの人が咥えていた煙草。残酷なまでに美しいギターソロは、常に紫煙と共にあった。ロングピース。いつもはセブンスターを吸う私が、ライヴの後に必ず吸う煙草。重すぎて苦くて、いつもまともに一箱を空けられない。でも、ライヴが終われば必ず買う。燃え尽きた後に、もう一度初期衝動を確認するために。それも一緒にシュウに買ってきてもらえばちょうどいい。
 ユニットバスでこそないものの、このアパートの浴室は狭い。脱衣スペースなんて考慮されていない。慣れないうちは、猫の額のようなスペースで四苦八苦して着替えていたものの、現在は居間で堂々と全裸になってしまう。シュウは体裁だけ取り繕うふりをして、実際のところは、もうさして気にとめていない。とは言え、やる時はやるわけだし、立つ物は立つし、濡れもするし、まったく人間の生理ってものは理解に苦しむ。それに比べて音楽のどれだけ単純明快なことか。
 何の気なしに触れると、私の左胸が、いつもより拍動が強く、そして、わずかな熱を帯びているように感じられた。それが勘違いでないとして、いったい何のためのことなのだろう。Aカップだから心音が分かりやすいとシュウに言われたことを、なんとなく思い出した。反射的に、シュウが投げ出していた足を蹴った。胸の大きさでロックもパンクもやってるわけじゃないっての。そのAカップを楽しそうに弄るくせに。



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